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  これまで数多くの被爆者の皆様からお話を伺って来ました。対面取材のみならず、学生たちに混じって被爆体験講話に参加したことも度々ありました。その過程で「いくら話しても、わかってもらえんのじゃ」だとか「本当に理解してくれたのか、ようわからん」といった悲痛な声を幾度となく耳にしました。

また、小学生や中学生、高校生たちからは「あまりにも古い話なので正直、実感が湧かなかった」、「とても辛い話だったけれども、内容はあまりよく覚えていない」といった悲しい感想も度々聞かされました。さらには拙著『平和のバトン〜広島の高校生たちが描いた86日の記憶』の取材を通じて、被爆者の皆様と今を生きる高校生たちとの間に生じる軋轢、葛藤、苦悩、そして共通の意識に立てた際の溢れ出る喜びと達成感をもつぶさに見て来ました。

 

こうした経験を通じて、せっかく被爆者の皆様の貴重な体験を直接伺えるというのに、その真意がどうも子供たちにうまく伝わってはいないのではないか、といった懸念がふつふつと湧いて来ました。10年後、20年後、彼らが成人し、社会生活を営む中で「平和」の大切さに目覚め、「原爆」の非人道性を認識し、是非とも被爆者本人から改めてお話を伺いたいと思っても、それは叶わなくなっているかも知れない。いや、おそらくもう不可能となっていることでしょう。

 

一期一会。この子供たちの人生をも変えるかも知れない珠玉の刻を、何とか実りあるものに出来ないだろうか。そこで数回にわたり、私なりに考察した継承の方法論を繙いてまいります。

もちろんこれは、あくまでも私論に過ぎず、正解ではあり得ません。これ以外にも様々なアプローチの仕方があるはずです。また、被爆者の皆様がこれまで培って来られた継承のやり方を否定するものではまったくありません。

ただこれまで、例え気になる点があっても被爆者の皆様に遠慮して口にせず、誰も彼らに直接伝えて来なかったように思います。気持ちは痛いほど良くわかります。「被爆体験のない者が何を抜かすか!」と云われれば、黙るしかありません。しかしながら、手遅れとなる前に、誰かが云わなければならない。私の性分から云って、見て見ぬふりをするわけには行きません。そこで、批判は覚悟の上で、ほんのささやかであれ、お話する際のヒントになればとの想いで綴ろうと思います。

 

被爆者の皆様は、プロのナレーターでも声優でも、況してや俳優でもありません。よって話し方が稚拙であったり、うまい具合に気持ちや情景を表現出来ず、焦燥感に駆られておられる姿を何度となく見て来ました。しかしながら、それは何の問題もありません。大切なのは話の内容であり、話し方ではありません。これまでの人生で、家族にさえ話さなかった、話せなかった凄惨な体験を、立て板に水の如く話せる方がどうかしています。

ただ唯一、改善の余地があるとすれば、私が常々説いている共通言語でしょう。これが、被爆者の皆様が話される体験談の多くには欠けているのではないか、と感じています。

 

例えば私が中学生だった頃、75年前の出来事はと問われれば明治30年代にまで遡らなければなりません。第1回夏季オリンピックが開催された、京都帝国大学が創立された、米西戦争が勃発した等々、体験談を聞いたところでまったくリアリティを感じることなど出来ない遠い昔の出来事です。ある意味、「わかってくれ」と云う方が無理な相談でしょう(外国人であれば尚更です)。被爆者の皆様自身、目の前にいる子供たちと同年代だった頃のことを想い出してみて下さい。75年前。それこそ大政奉還や新橋・横浜間に鉄道が開通した頃になるはずです。

 

そのため、両者を隔てる認識の違いや言葉のギャップを少しでも埋めるためには、どうしても時空を超える工夫が必要となります。疑似体験を創出するコミュニケーション・テクニックが求められます。では、どうすれば良いのか?私なりに考える具体的かつシンプルな方法を次回から、つらつら書き綴って行きたいと思います。