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  被爆体験の風化について、ああだこうだとご高説を述べるひとは後を絶ちません。どれもこれも一理あるとは謂えども、どうにも納得が行かない。なぜか。戦争を知らない子供たちが滔々と理屈を述べ立てているだけだからです。彼らは、真剣に被爆者と向き合い、寄り添って来たのだろうか。持論を披瀝することにのみ固執し、「これで私も反核だ、反戦だ」と溜飲を下げてはいないだろうか。結果的に被爆者の皆さんを蚊帳の外に置いてはいないだろうか。

私も偉そうなことは云えません。ただ、皆さんが思っているほど残された時間は長くない。誰かが声を上げなければ唯々、時間は過ぎて行き、時間切れとなってしまう。そうした想いを胸に、批判は重々承知の上で、稚拙ながらも私なりの考えを書き連ねて行きます。

 

さて、被爆体験講話が始まります。被爆者である皆さんに会う前に、子供たちは某かの事前学習をして来ることでしょう。教科書に書かれているような基本的な事実は学んで来るはずです。また、初めて被爆者に会うことで緊張もしているでしょう。「ヒバクシャってどんなひとなのだろう?」。中には「片足がないひととか火傷で顔がケロイド状になっているひとが来るかも知れない。恐いなぁ」と思っている子供もいるかも知れません。

 

  そんな子供たちが待つ部屋に入ります。皆さんの姿を見た瞬間、子供たちは自分の祖父、祖母。いや、曾祖父、曾祖母を思い浮かべるはずです。そして無意識に、「昔の話だ。僕には、私には関係ない」と判断するに違いありません。つまり、これから「自分とはまったく縁のない話を聞くのだ」といった姿勢、心構えで、そこに座ることとなります。

これは致し方ありません。自分の親でさえ自分のことを十分にはわかってくれないのに、60歳以上も年が離れた赤の他人の話など理解出来るはずがない、心を通わせられるわけがない、と彼らは思います。まずは、こうした子供たちの、周囲の大人たちによって植え付けられた固定観念をゆっくりとほぐし、溶かしてあげることが必要です。

 

まず最初に、子供たちにとって「楽しいこと」、「幸せだと思うこと」を尋ねてみてはいかがでしょうか。「ゲームをしている時」、「友達とおしゃべりしている時」、「サッカーをしている時」、「大好きなイチゴを食べている時」。色々な意見が出るはずです。

一頻り、話を聞いた後で今度は皆さんが、昭和2086日以前に経験した「楽しかったこと」、「幸せだったこと」を話してあげて下さい。戦前、「元安川で泳いだこと、魚を釣ったこと」、「家族で鰻をお腹いっぱい食べたこと」、「お父さんに広島県産業奨励館へ連れて行ってもらったこと」。戦時中でさえ、勤労動員に駆り出されながらも「皆で歌を唄ったこと」、「ふかし芋を同級生と分け合って食べたこと」、「若い将校さんに恋心を抱いたこと」等々、楽しかった想い出は幾つも、幾つもお持ちのはずです。実際、私が取材でお目にかかった被爆者の皆さんは、「楽しかった想い出」は喜々としていつまでも、いつまでも話して下さいました。

 

目の前にいる子供たちと同い年であった自分に戻り、「楽しかったこと」を共有することで、子供たちは、これも無意識に「あ、僕と、私と同じひとだ」と気づきます。とても単純なことですが、大切な気づきです。実際に、皆さんはこれから、皆さんが10代に経験されたことを話すわけです。心の中はその時の自分に戻っているはずです。その子供と話をさせてあげて下さい。

私が拙著『平和のバトン〜広島の高校生たちが描いた86日の記憶』で用いた手法ですが、自分が子供たちと同世代だった頃の写真を見せてあげるのも良いかも知れません。悲惨な話を聞かされると身構えていた子供たちの心が、ふっと軽くなることでしょう。「自分と同じ感情、感性を持ったひとの話を聞く」と、自然に皆さんとの向き合い方が変わって来ます。

 

昨年1130日の投稿で私は、金メダリストのカール・ルイスを取材した時のエピソードを引き合いに出し、「聞きたいことは聞くな」と書きました。講話の場合はこの逆で、最初からは「話したいことは話さない」といったスタンスです。

被爆体験を話す時間は限られています。子供たちが集中力を持続出来る時間は45分がいいところでしょう。色々と話したいこと、伝えたいことがある。焦る気持ちは良くわかります。しかしここは、ほんの少し気持ちを抑えて、子供たちとの共通言語を作ることに集中されてはいかがでしょう。初めにこうした関係性、信頼関係を築ければ、その後の経験談もスムーズに彼らの心の襞へと染み渡って行きます。

被爆当時15歳だった皆さんと、今、15歳の子供たちが向き合うことで、ひとつ共通言語が生まれます。時を超えた出会い。共通言語を持つということは、時間による分断を埋める作業でもあるのです。これから話すことは、目の前にいるお爺さん、お婆さんの昔話ではなく、君たちが経験したかも知れないことです。もしかしたら、君たちが明日、経験するかも知れないことです。初対面同士のコミュニケーションは、こんなところから始まります。