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核保有大国ロシア連邦によるウクライナへの軍事侵攻に伴い、核兵器が使用されるのではないかといった恐怖と不安が世界中を覆っています。その一方で、この紛争を引き金にアメリカ合衆国もまた、抜き差しならない倫理的、法理的命題に直面しつつあります。時を経て亡霊は蘇り、ひとり歩きを始めました。

 

今月23日、岸田文雄総理大臣との首脳会談に臨んだジョセフ・バイデン米大統領は、「安全保障上の課題に適切に対処しつつ、核軍縮・不拡散に関する現実的・実効的な取組を進め、『核兵器のない世界』に向け日米で共に取り組んでいくこと」に同意しました (外務省の公式見解より)。

ウクライナ紛争が長期化する中、ロシア連邦を国際社会から排除すべく結束力を強める北大西洋条約機構(NATO)のリーダーと、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(日米同盟)を外交の基軸とする我が国との関係強化といった意味合いから云えば、至極当然の合意内容と云えるでしょう。こうした日米関係の在り方について賛意を表す、または反対の異を唱えるなど、反応は様々でしょう。しかしながら私がここで指摘したいのは、そうしたありきたりの論点ではありません。

 

 読者の皆さんは、”戦争早期終結論”といった言説をご存じでしょうか。この説は、ハリー・S・トルーマン米大統領が1945年8月9日に、ラジオ演説で「我々は原子爆弾を、戦争の災禍を早く終わらせ、幾千人もの若きアメリカ人の生命を救うために使用した」と説明し、原爆の使用は太平洋戦争を早期に終結させるためには必要不可欠であったと米国民に説いたことに端を発しています。

この”戦争早期終結説”の根拠は、ダグラス・マッカーサー元帥率いる陸戦部隊とチェスター・W・ニミッツ米太平洋艦隊司令長官指揮下の海上部隊による九州上陸作戦『オリンピック』と関東平野上陸作戦『コロネット』から成る『ダウンフォール作戦』によって、米軍が蒙るであろうと想定された死傷者数が5万〜27万人と試算されていたことに起因しています。

 

冷戦期に入ると損害予測は独り歩きを始め50万、100万と異様な数にまでに膨れ上がりますが、この「戦死者100万人」説は元・米陸軍長官であったヘンリー・L・スティムソンが1847年に、米『ハーパーズ』誌(2月号)に寄稿した「原爆の投下決定 (“The Decision to Use the Atomic Bomb”) と題された論文が根拠となっています。当時、ハーヴァード大学の学長で『マンハッタン計画』の総括責任者でもあったジェイムズ・B・コナントがスティムソンに書かせたとも云われるこの論文で、彼は「原爆を投下しないで上陸作戦を展開した場合、戦争は1946年の末まで続くと推定され、その際の犠牲者は米兵だけでも100万人と見積もられた」と記し、世論を誘導するプロパガンダに加担しています。

 

 まったくもって理不尽極まりない論法です。いみじくも大日本帝国政府が指弾したように、『ハーグ陸戦条約』には、戦時下においても「交戦国ハ害敵手段の選択上無限ノ権利ヲ有スルコトナシ」と規定されており、「無益ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器弾丸其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」は固く禁じられています。原爆投下は明らかに非戦闘員である一般市民をも無差別に標的とした戦略爆撃であり、戦時下であろうが決して許される行為ではありません。

元・米国防総省職員として1945年から68年にかけてベトナムに関する米国の政策決定の極秘調査に携わり後年、俗に云う『ペンタゴン・ペーパー』を米上院外交委員会に手渡したことで知られるダニエル・エルズバーグ氏は『中國新聞』(2009年8月24日付)の取材に応じて、

「ほとんどの米国人は、広島と長崎の人々が犠牲になったことを、必要かつ効果的なことだとみなしてきた。あのような状況下では、正当な手段であり、実際のところ『正義のテロリズム』であったと考えられている。(中略) 私たちは爆弾投下、特に大量破壊兵器を都市に投下したことで戦争に勝利したのだと信じ、その行為はまったく正当であったと信じている世界で唯一の国である。これは、核時代が続いている今日において、極めて危険な考え方である」と警鐘を鳴らしています。

しかしながら、こうした戦争早期終結説”は残念ながら、今でも米国の保守層、特に高齢者を中心に”定説”として固く信じられています。

 

ハリー・S・トルーマン米大統領(左)とヘンリー・L・スティムソン

 

  ところが、戦後77年を経て突如としてロシア連邦によるウクライナへの軍事侵攻が始まりました。ウラジーミル・プーチン露大統領が、明確には核兵器の実戦投入について言及していないにも関わらずバイデン大統領は、プーチン大統領を「戦争犯罪人」と呼び、非難しています (今年3月16日)。翌17日の同大統領のツイッターアカウントでは、「プーチンは恐ろしい破壊と恐怖をウクライナにもたらしている。集合住宅や産院を爆撃している。昨日、私はロシア軍が何百人という医師や患者を人質にしているといったニュースを見た。これは非道極まりない残虐行為であり、世界に対する暴行だ」 (Putin is inflicting appalling devastation and horror on Ukraine — bombing apartment buildings and maternity wards. Yesterday, we saw reports that Russian forces were holding hundreds of doctors and patients hostage. These are atrocities. It is an outrage to the worldとまで述べています。

 

しかしながら、ロシア連邦がウクライナに対して核兵器を用いる可能性は限りなくゼロに近いとは云え、万が一にも使用せざるを得ないといった局面を迎えるとすれば、その言い訳は、取りも直さず「戦闘を早期終結させるため」となるでしょう。そう、米国がかつて主張し、正当化したのと同じ理由です。

プーチン大統領が”戦争犯罪人”であれば、トルーマン大統領は”戦争犯罪人”ではないのか。ロシア連邦によるウクライナに対する核兵器使用が”人道に反する“のであれば、広島、長崎への原爆投下は”人道に反しない”のか。ロシア政府の核による威嚇は、図らずも米国が行った過去の”戦争犯罪”を炙り出すこととなり、これまで米政府が頑なに堅持し続けて来た戦争早期終結説”の正当性を根底から覆すこととなります。

 

   米政府は現在、核兵器の使用を踏み留まるよう水面下でロシア政府と密に交渉を進めているはずです。それは東欧における地域紛争が第三次世界大戦へと発展・拡大することを妨げるためであると同時に、同国がかつて行った人類に対する非人道的行為を白日の下に晒さないため、パンドラの箱を開けないためでもあります。

  新たなパラダイムシフトが進行しています。ウクライナにおけるロシア軍の凄惨極まる攻撃を目の当たりにして、最早、米国が唱える戦争早期終結説”を真に受ける人はいないでしょう。今後の戦局次第では自国が、自分が生まれ育ったこの街が、あの丘が、広島、長崎と同じ焦土となるかも知れない。人々はようやく核兵器の本質に気づき始め、米国の欺瞞が徐々に明らかとなりつつあります。圧倒的なリアリティの前には、プロパガンダも色褪せます。死者が、声を上げ始めました。合衆国軍の最高司令官であるバイデン大統領は来年、被爆地・広島で何を語るのか。

 

   最後に苦言をひとつ。このような考察は本来であれば、私のようなアウトサイダーではなく、被爆の実相をより良く知る、知見を持つとされる広島、長崎の研究者やマスメディアによって提起されるべき内容です。なぜ、あなたたちは沈黙しているのですか。私が、今の広島を称して「ゆるやかな死」と云わざるを得ない所以です。

 

Il nome suo nessun saprà... 
E noi dovrem, ahimè, morir, morir!

 

誰も 彼の名を知らない

嗚呼 私たちには 必ず死が訪れる

 

(歌劇『トゥーランドット』作曲 ジャコモ・プッチーニより)