20250730-1.jpg

和英辞典『和英語林集成』 (著者はヘボン=平文と表記されています)

 

ローマ字のつづり方が70年振りに”訓令式”から”ヘボン式”へ変更されることとなりました。ローマ字が内閣告示によって、「ち」は「ti」、「じゅ」は「zyu」と表記する訓令式に定められたのは1954年 (昭和29年) のこと。母音と子音が規則的に配置された極めて文法的な表記法でしたが、訪日外国人旅行者数が年間累計4000万人にも達する現代に即した、より英語の発音に近いヘボン式が今回”推奨”されることとなりました (内閣告示はあくまでも目安に過ぎず強制力はありませんが、改定に伴い小学校の次期学習指導要領ではヘボン式が採用され、教科書の表記も変わります)。

ヘボン式は、1859年 (安政6年) に医療宣教師として来日し、横浜居留地で英学塾を開いたジェームス・C・ヘボン医師によって編み出されました (このヘボン塾の生徒には明治政府の重鎮 林董や高橋是清、三井物産の創始者である益田孝などが顔を揃えていました)。彼が編纂し、67年 (慶応3年) に上梓した和英辞典『和英語林集成』によってヘボン式は完成を見ます。

 

文明開化の時代、日本語は大きな危機に直面していました。明治政府の初代文部大臣 森有礼は、驚くことに日本語をローマ字表記にすべきと主張します。薩摩藩留学生として英国へ渡り、2年間を欧米で過ごした彼は、誰よりも”西洋”を身を以て体験していた。悪く言えば西洋かぶれだったわけですが、西洋文明を目の当たりにした当時の日本人の驚愕ぶり、危機感、焦りというものは、私たちの想像を遙かに超えるものであったことが判ります。彼は自著『Education in Japan』 (1873年) の中で、

「日本という国家の法は、日本語では維持出来ない」 (The laws of state can never be preserved in the language of Japanとまで言い切っています。政策の是非はさて置き「学校令」を公布し、小学校・中学校・師範学校・帝国大学などからなる学校制度を整備したこの森有礼はなかなか興味深い人物で、「ローマ字の採用は我ながら名案だ!」と勢い込んだ彼は、米国の弁理公使であり言語学の権威でもあったウィリアム・D・ホイットニーに具申します。ところが、

一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります」と逆に諫められ、日本語のローマ字化は幻となりました。

危ないところでした。もしもこの草案が採用されていたならば、私たちは今頃、現在のベトナム社会主義共和国と同じように漢字や平仮名は一切使わず、ローマ字だけを使っていたかも知れません。

 

   ジェームス・C・ヘボン

 

そして90年 (明治23年)、「教育ニ関スル勅語」 (教育勅語) が発布されます。儒者で枢密顧問官であった元田永孚と法制局長官であった井上毅によって起草されたこの勅語は、明治天皇を元首とした国家への国民の忠誠心を形成すべく十二の徳目を掲げ、教育における思想統制の端緒ともなりました。

この勅語はその後、東亜戦争へと突入して行く国家中心主義の根幹を成すこととなりますが、その一方で「斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」とあるように、当時の行き過ぎた西洋化に対するアンチテーゼでもありました。文豪 夏目漱石曰く、

「日本は三十年前ニ覚メタリト云ウ然レドモ半鐘ノ声デ急ニ飛ビ起キタルナリ其サメタルハ本当ノ覚メタルニアラズ狼狽シツ、アルナリ只、西欧カラ吸収スルニ急ニシテ消化スルニ暇ナキナリ、文学モ政治モ商業モ皆然ラン日本ハ真ニ目ガ醒ネバダメ」 (明治34年3月16日の日記より)。

桁外れの物量と最新技術を伴った西洋文明が怒濤の如く極東のちっぽけな島国に襲いかかりましたが、果たしてこの小国には自らを守る術が儒教的道徳に基づいた忠君愛国の思想しかなかった。それは我が国にとって大いなる不幸であり、幸いでもありました。

 

さて外国人観光客が大挙して訪れ、遅かれ早かれ前代未聞の数の移民が押し寄せて来るであろう近未来。この国は、いかにして国益を、伝統文化を護るのか。他民族国家においては”ヘボン式”如きでは到底、日本語の不備は補い切れません。日本語は再び、大きな挑戦に見舞われることとなるでしょう。

 

このページのトピック