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古来、”不苦労”または”福朗”とも記された「梟」が彫り込まれた背中を背景に、「国宝」の二文字が静かに浮かび上がる。吉凶がないまぜとなったオープニングが暗示的な現在大ヒット中の映画『国宝』 (東宝) を鑑賞しました (ネタバレあり)。

 

芸道映画と云えば、名匠 溝口健二監督がメガホンを取った『残菊物語』 (1939年) が白眉とされています(主演 花柳章太郎、高田幸吉)。また海外に目を向ければ陳凱歌 (チェン・カイコー) 監督の『さらば、わが愛/覇王別姫』 (1993年) が文句なしの最高傑作と云えるでしょう。幼少期から切磋琢磨しながら当代一流の京劇役者となる程蝶衣 (レスリー・チャン) と段小楼 (チャン・フォンイー) の壮絶な愛憎劇を、京劇を代表する演目『覇王別姫』になぞらえて、圧倒的なドラマツルギーと映像美で描き切った同作は”芸”がはらむ深淵を物の見事に映像化していました。

『国宝』を撮った李相日監督も上海国際映画祭の舞台挨拶で「学生時代に『さらば、わが愛/覇王別姫』を観た衝撃から、いつかこんな映画を撮ってみたいという思いを持っていた。それが歌舞伎をテーマに映画を撮ってみたいという思いに繋がった」と創作の原点を語っていました (6月18日)。

同作は日中戦争、国共内戦を経て中華人民共和国の成立から文化大革命へといった激動の時代に翻弄される京劇役者を主人公に据えた壮大かつ重厚な歴史ドラマでしたが、『国宝』は同じくふたりのライバルを描きながらも吉沢亮演じる立花喜久雄 (3代目 花井半次郎) が「俊ぽんの血をコップに入れてガブガブ飲みたいわ」と吐露するセリフに象徴される”血” (血縁) に的を絞った希有な芸道映画でした。

長崎の極道 立花組で生を受けた喜久雄と上方歌舞伎の名門の御曹司 大垣俊介 (横浜流星) との数奇な運命を辿った『国宝』は、まさに”悪血”と”純血”の確執の物語。より正確に云えば”血”よりも濃い極めて日本的な”家”制度に切り込んだ画期的な作品とも云えるでしょう。

その一方で、オーラスを飾る功成り名を遂げた喜久雄が白無垢姿で舞う優美な『鷺娘』は、実父で組長でもあった立花権五郎 (永瀬正敏) が新年会の夜、カチコミに逢って雪景色の枯山水で仁王立ちしながら絶命するシーンと見事なまでにオーバーラップします。権五郎は、「見ていろよ」とばかりに背負った刺青を喜久雄の眼に焼け付けさせます。父から息子への命を張ったメッセージ。劇中、喜久雄はインタビューに答えて「なんやずっと探しているものがありまして。景色なんですけど」と呟きます。

その意味においてこの作品は、歌舞伎に代表される極めて日本的な”家”の宿痾を主題に据えながらもその実、”血”の美学を描いた優れた任侠映画とも云えるでしょう。権五郎の刺青は”不動明王”でしたが喜久雄のそれは、夜陰に紛れて肉を喰らう。それでも福を呼び寄せる幸運の鳥、闇夜を支配する神の化身として尊ばれた”梟”であったことは象徴的です。劇中、喜久雄はさらりと「神様と話しとったんとちゃうで。悪魔はんと取り引きしとったんや」と云ってのけますが、”復讐”は喜久雄の生涯を支配した”宿命”だったのかも知れません。

 

 

歌舞伎に精通した者に云わせれば、どうにも納得の行かない筋書きやエピソードは多々あります (例えば部屋子が大名跡を継いだり、身を隠した御曹司がドサ回りをする件や些細な振る舞いなど)。しかしながら、飽くまでも歌舞伎を題材にしたフィクションと割り切れば、主演の吉沢亮と横浜流星が僅か1年半の稽古で女形の所作をマスターし、見事に演じ切った点は高く評価して然るべきでしょう (加えて人間国宝 小野川万菊を演じた田中泯の演技は圧巻)。

吉沢亮が「懸けてました。この作品で自分が輝けなかったら何のために役者やってんだぐらいの、これでダメだったらやめてもいいぐらいの覚悟を持ってやってました」と吐露するのも頷ける映画史に残る名演でした (映画『国宝』公式サイトより)。それは、稀代の女形と讃えられる人間国宝 坂東玉三郎がいみじくも語った「苦を忘れるために夢中になる。そうなれば夢の中ということです」と相通じるスクリーン上における”芸”の凄味でもありました。

 

出雲阿国が京の大道で始めた原初の愉しみとは異なり、我が国を代表する伝統芸能の座にまで登り詰め、すっかり庶民からは縁遠くなってしまった歌舞伎の魅力を余すところなく伝えたことに小説家 吉田修一が著した原作、そして視覚的効果を駆使したこの映画の意義があります (歌舞伎公演の製作・興行を取り仕切る松竹にはフィクションとして扱うことは憚られ、東映製作であればより生臭い作品となっていたことでしょう)。歌舞伎はエンターテインメント以外の何物でもない。そんな当たり前のことを、改めて実感させてくれた画期的な作品でした。

リアリズムとドキュメンタリーは似て非なるもの。か細い境界線を綱渡りし、まさしく花道の如く堂々と死に際の”美”を描き切った李相日監督の類い希なる”芸”が際立ちます。終演間際、紙吹雪が舞い落ちる『鷺娘』の舞台上で、喜久雄は官能的な表情で「きれいやなぁ…」と独りごちます。この刹那、彼は権五郎との”血命”を漸く結び終え、旅立つ白鷺に夢を託す。「悪魔は、この世にはやっぱりおらんかったんや」と。